東京時代/2

社長の運転手つきで海水浴へ

 

 朝一番のタバコをくぐらしながら、新聞をよんでいる社用運転手さんに声をかけた。

「お早うございます。吉田さ~ん、

  来週の日曜日はお暇でしょうか?」

「おう、なんだ?」

「あの~ お暇でしたら、社長の車で海へ連れてって欲しいのですけど……

 いきなり朝から、こいつは何を言い出すのだ?という斜め警戒の目。僕の顔を見ずに

「何でお前を海に連れて行かねばならんのだ?」

「はい、一度社長車に乗って海に行くのが憧れでしたのでいや実はですね!先日企画課の仕事で使ったモデルさんを海水浴に誘ったら、行くっていうので吉田さんが写真撮るのが趣味って聞いていたものですからご一緒にどうでしょうか。」

……………ん?……いいぞ!」

 

 「やった~!うまくいった!」というわけで、同僚の尾上くんを誘って、四人で城ヶ島まで出かけることになった。モデルさんの迎えは彼女の近くの中野駅で落ち合うことにした。吉田さんの住まいは、僕らが住んでいた大久保の寮にわりと近かったから、車を寮から直接見えない場所に止めてくれて、僕らはそそくさと乗り込んだ。社用車は黒のニッサン・セドリックだ。ゆったりたっぷりのスペース。背もたれの頭の部分には真っ白い布が掛けられている。当然、運転手さんの横の助手席にはモデルさんに座ってもらって吉田さんは最初はかなり緊張していた。

 彼は後ろ席の僕らに、

「お前たち、車の中汚すなよ!」となぜか急に命令口調で注意する。

「はい、解りました。」素直に明るく答えてルンルンルン、いざ出発。

天候は申し分ない晴天だ。(つづく)

 

 

モデルの石川祐子さん

当時の年齢は20歳前後でした。何度か新宿でデイトしましたが、それ以上の関係にはなりませんでした。そりゃそうですよね、どこの馬の骨か解らん奴とは…

僕は結構好きなタイプでしたが、いまどうして居られるでしょうか?

 

 

 

デザインスクールの課題作品 

 スタゲッツ


 

【撮影データ】モデルは高見理沙さん/撮影場所不明

ミノルタNEW SR-1/ロッコール135mm/F5.6  250/1

この人、誰~れだ!

 

 グラフィック・デザイナーを夢見て東京へ出た僕は、昼間は北海道が発祥の某食品会社の企画宣伝課に勤務し、夜間は代々木の日本デザインスクールで勉学に励 んだ。(?遊んでばっかり)グラフィック・デザインのカリキュラムの中には写真撮影という授業もあり、カメラを持ってモデルさんを撮る野外撮影会もあった。仲間にはカメラが趣味という奴がいて、彼のアドバイスで当時人気があった「ミノルタのNEW SR-1ロッコール(緑色レンズ)」を月賦で買ってカメラ・デビューすることになる。

……で、表題の「この人だ~れだ?」に話しを移す。

 写真の方は、前首相・鳩山由紀夫さんの弟の鳩山邦夫さん(自民党)の奥様(高見エミリーさん)の妹さん高見理沙さんです。 彼女はその後、世界一のタイヤメーカー「ブリジストン」の石橋家<現(財)石橋財団の理事長/石橋寛氏>に嫁ぐ。(詳しくはネット上の鳩山一族でご確認ください)

 高見理沙さんは、今から45年前は東映に所属していた女優さん。ファッション・モデルもしていて、巻頭の写真は、ポートレート撮影会に参加した時に撮影させていただいたプリントです。アルバムにはさまっていた、古いモノクロ写真のエピソードでした。

 

 

デザイン会社に転職

 

  務めていた食品会社の企画課がパッケージ・デザインを外注していた四谷の「YAOデザイン研究所」という事務所に、何と!会社側からの口利きもあって、転職できることになった。

 いよいよプロの道に!という訳だ。

 普通の会社員の環境とは数段異なるこのデザイン研究所での、比類なき経験と出来事については特筆すべきことが多々あり、その中の幾つかのエピソードを記しておきたい。

 

<事務所での酒盛り> 

 勤めはじめて一週間したころ。夕刻6時に仕事が終ったので、さあ帰ろうかなと思って、「何か手伝うことありますか…なければ帰っていいですか?」(帰る前には必ず先輩に確認するのがキマリ)と問いかけると、

先輩から、

 「お~今日はな、隣の部屋で酒盛りやるから準備しとけ!」と命令される。

 「え?は、はい!」と返事して、先輩からその段取りを聞き出し、応接室のサイドボードからはウイスキー類を、冷蔵庫の氷や水差しグラスなどを用意する。

 先輩たちは僕は酒が呑めないことを知っていたので、一緒に呑んでいけと強要はしなかったが、自分としては、これからいろいろお世話になる先輩たちとの付き合いもあるので、準備が終わってからも、酒盛りの場にいるだけでも必要なことであろうと考え、輪の一員になる。

 しかし皆が酔い始めて、酔っぱらいの難解な話し(仕事がら全部難解)や、訳の解らん騒ぎが飛び交うころになったので、「僕はそろそろ帰ります…」と、大人しい先輩(常識的な人)に耳打ちして、そそくさと帰るのであった。全く飲まないのも調子悪いので、いくらかは酒を口にしていた。

 酔いを冷ますつもりで事務所がある四谷から新宿まで歩くのだが、途中で具合が悪くなり新宿3丁目あたりで電柱にもたれてゲロを吐いたりした。

 とにかく“みんなすっごい酒呑み”だった。

 

 そんな次の日の朝、いつもの掃除役で一番に事務所に出ると、部屋はプーンと酒の匂いが充満している。気持ち悪いから窓を全開にする。

 そして…え、奥の応接室前の床に水が溜まっている。何だ??

 近づいて酒盛りの部屋に入るやいなやカーペットが水浸し。何だこりゃ?!一瞬、理由が解らん不気味さに陥る。どうしてこうなってるの?

 とにかく先生や事務の女性が出社する前に応急掃除するが、奇麗に片付きはしない。

 10時頃になると一人また一人と先輩たちが現れる。それぞれが何事もなかった様に、でかいアクビをしながら「あ~ぁ、昨日は飲んだわ!」って。

 おそる恐る聞いてみる

 「先輩、どうして部屋が水浸しなんですか?」

 「アハハ!あれな、最後に水かけやったんだ。片付けたか?」だって。

 昼近くに同じくガブガブ飲んでいたFさんが出てきた。顔のあちこちにキズがある。

そして「お~イテー」と言っている。

 僕はビックリして 「どうしたんですか?」と聞くと、

「帰りに新宿駅で他人グループと小競り合いになって、駅の階段から転げ落ちたらしい…」詳細は記憶してないという。

「飯喰ってから、病院行ってくるわ!」って…そんなのは平気らしい。

 僕はバカらしくて飽きれる他はない。でも…そういう人ほど魅力的で独特なデザインをするんですよね、昔はね。

 

 午後から先生が出てきて、カーペットの残り水の気配を見て、

「またやったのか、バカども!」とつもなくでっかい声で一喝して、それでおしまい。

(そんな事はたまにあるらしい)

聞くと、先生もそのタイプらしい。男らしいあっさりした先生だった。

 日本が勢いよくすべてグングン右肩あがりの時代。30歳前後の、皆んな血気盛んなデザイナーたちだった。

YAOデザインのメンバーと伊豆・伊東沖の初島へ

 

 

YAOデザイン研究所と八尾武朗先生のこと

 デザイン会社での日々…

 

「何か手伝うこと、ありませんか?」

「うん?…いい」

 

 事務所は四谷の低層マンション2階にあり、僕は毎朝9時をメドに一番に事務所に出る。

 まずは2つの部屋の掃除から始まり、次に各先輩の筆と筆洗と絵皿を洗い、それらを各人の机の右上にセットしておく。そうこうするうちにパラパラと先輩が出勤してくる。

 お茶をいれる。10時30分頃には全員が出揃う。それから何人かで世間話し(ほぼ昨夜の酒の話)が始まり、11時頃「さ~てと…」で、各人それぞれに動き出す。

 

 僕は一呼吸おいてから「何か手伝うこと、ありませんか?」と聞くが、

ほぼいつも「うん?…いい」なのである。

 本業のデザインに直結した仕事は毎日ほとんどない。(商売になる技術などないから、させてくれない。)

 「ジャマにならんよう見学しとけ!」とか

 「隣の部屋(資料棚)で本でも見とけ!」 

 「これ全部ゴミだから、ビリビリ破いて捨てておけ!」とか…。

 

 先生が出て来て天気がいい日には、愛車“トヨペット・コロナ”の洗車をする。1965年<昭40当時ではマイカー保持者はとても少なかった。車を洗いながら自分も頑張って車欲しいな…とあの時代は皆が具体的な夢を抱いていたものだ。

 

 昼食前になって「千葉よ、銀座行って写植受け取って来い!」とか、

「写真のプリント取ってきてくれ!」(版下に使うロゴなどのモノクロ・プリント)と届け物のお使いを頼まれる。

「何時まで必要ですか?」デッドラインを確認して、地下鉄で銀座まで出かけたりするのが日課であった。有楽町ガード下の安い定食屋で昼飯食べて、銀座松屋のギャラリー見学(宇野亜喜良/横尾忠則さんの生のイラストも見た)など、許された時間の範囲で好きなところをブラブラできた。(現在のように、実力無くても“無理矢理ガツガツ働かされる時代”ではなかった…ように思う。)

 

 指示された時間前に事務所に戻ってくるのが3~4時頃。先輩の仕事ぶりを見学させてもらう。例えば、トヨタ2000GTが試験走行している写真ポスターとか、雪印バターのパッケージ・デザインとか。(パッケージ・デザインはすべて手書き。雪印の細かいマークもミゾビキを使っで細筆で書く。)

 

あっ、そうだ!の1

 たまに八尾武朗先生の友人の有名な先生(勝井三雄先生など)が事務所を訪れると、われ先にとお茶を出す競争もあった。(顔を覚えて貰おうとする?東京は競争感覚が違うのだ!)

 

あっ、そうだ!の2

 朝早く出てきて掃除をしている最中に、ときたま先生が9時前に事務所に入っていきたりすることがある。

  「千葉、これで昼飯でも喰え!」って、ぶっきらぼうに千円札をくれるんですね。瞬間ビックリして、「いえ、いいです。給料貰ってますから…」と一応は断るのだが、「いいから取っておけ!」って…

 嬉しかったですね。それが、丁度給料日前なのですね。頑張ろうという意識がメラメラ燃えましたね。(給料は2万円でした)

  

あっ、そうだ!の3

 僕は現場確認(見てない)してませんが…たまに来る会計事務員の女性の話し。「先生はウンコした後、水洗トイレなのに自分で流さないんですよ!」って云ってたことがありました???。(そんな人っています??僕の勘違い聴き間違いでしたら、天国の先生ごめんなさい!)

 

あっ、そうだ!の4

  アメリカに密入国していた弟が、一斉に検挙され送還されて、東京へ帰って来てから、YAOデザインさんにお世話になりました。(1970年代初め頃)

 

 あっ、そうだ!の5

  先生の行きつけのバーが四谷のはずれ(新宿の入口)にあって、バーの名前が「ありんこ」。入社半年後くらいに、先生と先輩たちと(僕ははじめて)連れて行ってもらいました。一応社員として認めてもらったかな…という意味で、このことも本当に嬉しかったですね。

 このバーで始めてビザをご馳走になりました。「世の中にこんな旨いものあるんだ~」と大感激。(その一年ほど後に、ピザが東京では一般的な人気メニューに!)

 

 このような楽しいこと、笑えることがいろいろあったYAOデザイン時代。

 先生は「お前さ…札幌へ帰ったほうがいいんでないか!母さん一人で待ってるんだろうし…」と急に云われたり…本当に人情味と男儀のある、とても魅力的な先生でした。

 

 現在の(株)YAOデザインインターナショナル

1962年設立。(僕がお世話になったのは1966年/デザイナーは先生他5名で、駆け出しの若者が2名<自分も>)と非常勤事務女性1名。

 八尾武朗先生は1994年に63歳で永眠されました。事務所はお嬢さんが引き継ぎ、現在も活躍されています。2012年が50周年。素晴らしい歴史です。

http://www.yao-design.co.jp/profile.html 

 

 

 

東京名物 

 わかばたいやき

 

   不景気時には「たいやき」が流行る??

 いつ頃からでしょうか?「たいやき」が密かに人気のようです。

 そういえばデパ地下のたいやきコーナーに10~15人ほどのお客さんが並んでいる光景を、何度か見かけています。さらには商店街や郊外にもチラホラと小さなお店が出店しています。札幌で「たいやき」が売り出されたのは、そんなに古くはないようですが…どうでしょう。

 私が小学生の頃(1950年代)は「今川焼き」と「お焼き」という呼び名のものがありましたが、昔の札幌で「たいやき」を食した記憶はほとんどありません。

 なるほどな…という話をひとつWikipediaで見つけました。

 メデタイの縁起に由来する「たいやき」の焼き型(方)には、一匹ずつ焼き上げる型を<天然物>または<一本焼>と呼び、複数一度に焼き上げる型を<養殖物>と呼ぶそうです。例えがウマイ!パチパチパチ(拍手)

 当然、天然物は手間が掛かるので、最近はこだわりのお店でしか作られていないようです。

 東京では麻布十番の「浪花家総本家」(1909年創業)、人形町の「柳屋」(1916年創業)、そして四谷若葉町の「わかば」(1953年創業)が、たいやき御三家と呼ばれており、そのうち「浪花家総本家」は「およげ!たいやきくん」のモデル店と言われているらしいのです。(何がモデルかは不明)

 偶然ビックリ!

 僕は196567年頃に東京の四谷若葉町にあった「YAOデザイン研究所」の駆け出しデザイナーとして勤務していた時代がありました。この事務所のすぐ近くに、たいやき「わかば」(そういえば、有名店なのだと聞いていました!)があって、たまに“たいやきを自分の一個だけを買って、店先のベンチでこっそり食して喜んでました。

 頭に白い手ぬぐいを巻いたお兄さんが何人かで、鉄でできた重そうな枝の長い一本一本の焼き型をガチャガチャと操って、ぼてっと太ったたいやきを忙しく焼いていました。<これが正真正銘の一本焼き天然物>

 懐かしいな~。いまから45年前のことですよ!

 何とたいやきの「わかば」はいまも健在。 さすが東京の粋! すごい!!(HPあります)

 僕がお世話になったデザイン会社の八尾先生(社長、故人)は、“わかばのたいやきを、いつもクライアントへお土産として持参してました。たまには「千葉、たいやき買ってこい!」って買いに行かされたりもしました。得意先の受付の女性たちに、大変喜ばれていたようです。

 

 

洋酒がめちゃくちゃ高かったころ

 

 僕は酒がほとんど飲めない。嗜(たしな)めない。

 だから酒の種類・風味・知識、または酔っぱらったときの気持ちよい壊れ方などは、どう説明されてもトンチンカンだ。(逆に二日酔い?体験がない)

 少しでも嗜めれば(酒についての会話ができる程度でも)、人生の潤いある雰囲気を出せたのだろうが、それがゼロだ。誠に残念である。

 両親とも一滴も飲まない人たちでしたし、小さな頃から、日常、家の中で酒がある風景には馴染みがないのだ。(家への客人や、おじさんたちの酔っぱらいは見てはいましたが…)

 

 東京に出てから2年経った頃には何とかこの地にも慣れ、酒が飲めない僕もカッコつけて新宿は歌舞伎町や三丁目あたりに、デザイン学校の同級生たちとチョロチョロ出歩き始めた。

 当時はウイスキーをソーダで割った“ハイボール”を中心に、カクテルの流行もあって、ちょっとオシャレな紫色の“バイオレット・フィズ”とか、コーラで割った“コーク・ハイ”とかをチビチビ舐めながら、映画・文学・芸術論(デザイン論)とか、社会・人生・恋愛などを熱っぽく語ったりして。当時は“熱い討論”が流行したのです!

 

 当時フランスのサルトル(奥さんボーボ・ワール)の実存主義(1960年代の学生運動のバックボーンとなった考え方)とかが話題になっていて、そんな哲学世界なんぞはこれっぽっちも理解できない豆腐頭なのに、何かにつけてワイワイやってました。その情景をいま思い出すと、かなりコッパズカシイです。ハハ…(だから僕はもちろん、団塊世代のオヤジたちは、いまも理屈っぽくてうるさくて…ゴメン!)

 そんな風に安っぽい酒と共に、安っぽい青春を過ごしていました。ほとんど酒が飲めないくせに調子のって飲み過ぎたりすると、“滝田ゆうの漫画”のように、電柱に寄り添ってゲ~ゲ~やったりしてました。

 飲んべ~友達のアパートにはでっかい瓶の「レッド」とか「ブラック」とか「ホワイト」とか(当時はなぜかウイスキーの商品名がカラー<色>のネーミング)がドカンと置いてあって、そのビンにはマジックペンで線が引いてあって、呑ん兵衛の彼らは経済的な理由で一日の飲める分量を決めていたのだが、実態はさて?。

 当時は洋酒の“ジョニクロ&アカ”とか、“カティサーク”や“バレンタイン”などの、値段の高そうなカッコイイ酒が飲めるということは、憧れとともに、そういう酒が似合うカッコイイ男(身分)になりたいと願う…皆が夢多き時代だったんですよね!

 


 

1966年(昭41)6月29日早朝

「ビートルズ」がやってきた

 

  1966629日の夜半には、風速30メートルの台風四号キットが、東京方面を直撃していた。

 銭函出身の角くんと僕のニ名は「ビートルズを、迎えに行くぞ!!」の気合いで猛烈な風雨に逆らい、近くの板金屋さんから借りた赤い三菱ミニカで、深夜一時頃に京王線調布駅近くの「飛田給」(とびたきゅう)を出発。甲州街道を経由して、一路羽田空港めざした。道中、気持ち悪くなるくらいに、車がフワッフワッと持ち上がったりフラついたりハンドル操作が一瞬効かなくなったり。

「引き返すか?」

「いや、もう少しガマンすれば台風は行っちゃうから

とにかく初志貫徹!

まずは首都高速道路入口の「新宿」をめざす。

 

 ビートルズの一行が日本の台風を避けて、カナダのバンクーバーから約2時間遅らせて出発したことは、車のラジオから台風情報とともに刻々と知らされていたから、羽田へ近づくにつれ、期待感はどんどん膨らんでいた。

 午前3時頃、品川あたりで風雨は峠をすぎ台風は確実に遠ざかっていた。気分爽快で車の速度をあげ、羽田への高速道路に入って……しばらく走って、後ろから

「前の車停まりなさい!」「右へ寄せなさい!」パトカーがマイクで命令している。

「何だ、ここでストップか?」ビックリして振り向くと、???

「あれ~!」ぼくらの車のマフラーから、信じられないような真っ黒い排気ガスが、煙幕のように吹き出ていて、後の道路幅が見えないくらいに大きく広がっていて

「ヤッバ~イ、何だコリヤ!」という感じ。(直感で、これじゃこの先は ムリかなっていうくらいの煙の量)追い越す車も、面白がって通りすぎて行く。

 パトカーのおまわりさん、

「この車、こんなに煙噴いてたら動かなくなるぞ!」

「あんた達!羽田までいっても入られないんだよ!

ここから帰んなさい!!」

「ビートルズっつうのが来るから、行ってもダメだ!」

(もちろん、それは事前に知っていた)

「この車も、停まったら大変なことになるんだから、

ここから引き返しなさいよ!!」

「は~い、そうします」と空返事して、パトカーが去って、見えなくなるのを待つ。

 

 すぐに車の様子をチェックし、しばくしてから再びエンジン始動。何とか持ちそう。(ここまで来たらそう信じ込むしかない)さらにノロノロと2キロほど羽田に近づく。先のおまわりさんが言っていた通りに、パトカーがバリケードしていて、ここでストップ。

    

   出発時の嵐は通りすぎたが、空はまだ濃いネズミ色のまだらな雨雲が覆っていた。羽田空港あたりの下界は、一面に朝霧が這っていて、高速道路の照明灯だけがボーッと明るいが視界全体はまだ暗かった。季節は夏の入り口だが、台風の影響で外気は少し肌寒い。

 すでに30台ほどの車が到着していて、若者たちがワイワイはしゃいでいる。50人くらいの若者たちが欄干から身をのりだして、ビートルズたちが通過するのを待っている。幸いこの道路の位置関係は、東京から羽田への道路は上を走り、羽田から都心へ向かうのは下を走っていて、ぼくらのいた位置は、全体を見渡せるように見通しよく段差がついていた。

 早朝の四時近くになって、まだ薄暗さが残る空間の左手遠くから、チカチカと赤いランプを目印に、白バイ先導車が来た。

「きた!きた!きたぞ!」

興奮した誰かの声に、一斉に我先にと欄干に走りよって、欄干を一列に鈴なりになる。

「やっぱり、来たんだ!」

怪物たちが乗ったでっかいピンク色のキャデラックが、15メートルほどの眼下を通りすぎる。

皆、息を殺している。その瞬間、人々はみんな無口でその映像に釘づけになっていて、ずいぶん静かだった。ゆっくりとスローモーションのように(実際にそのように感じた)

パトカーの赤いチカチカが見えなくなるまで見送った後は、「フゥー」と心地よい疲れが全身を包んでいた。

 左手の羽田空港方向にオレンジ色の朝日、右手の上空は雨雲は去って、真っ青な空に真っ白な雲。その白い雲が、ものすごいスピードで左から右へスイスイ飛んでいく。台風一過だ。

 いまビートルズが通りすぎた羽田は、本格的な夏を感じさせる、眩しい朝になっていた。

(ちなみに煙を吐いた車は、その後なぜか、排煙は小さく収まり無事帰還した。)

 

★この時一緒に出かけた小樽市銭函出身の「角さん」北海学園大学の出身<現在70歳位の男性>を探しています。お知り合いの方ご連絡ください。

 

 

参考情報<来日前夜>台風四号は関東、東海地方に210億トンの降雨量をもたらして、28日深夜、房総沖をかけぬけた。死者55名、行方不明12名、家屋の浸水10万戸をこえた。列車の運休1200本。ガケくずれ1500カ所。

●28日午後8時半頃、羽田空港周辺、穴守橋、弁慶橋、日航オペレーション・センター前の関門では、豪雨の仲うをタクシーや車でかけつけた約1,000人のファンが、警官に追い帰された。(1,046名/車は426台)

日航バイカウント機412便は、29日午前339分、いきなり舞い降りてきた。

410分到着予定が30分も早かった。何とか羽田空港内に隠れ潜り込んだ潜入者たちも、あっいう間に去ってしまったために一目も確認できなかった。