落とし物・忘れ物(自分史物語)

 67年間を、あたふたと小走りでやってきて…ふと立ち止まって、もと来た道を振り返ってみると砂利道と側の草むらにたくさんの“落としもの忘れもの”があることに気づきました

 自分は…どこから来て、何をして、どこへ…。

  そんなことを回顧・夢想・妄想しつつ…いま改めてこれまでのあれこれを思い出しながら、それらを拾い集めきた道をもっともっと昔へ…いまは、50年前あたりの三叉路にいます。

 

 自分史的昔話し「落としもの・忘れもの」は、現代の話ではなく、ズーッとズーッと過去の、忘れかけていた出来事を思い出しながら、僕が生まれた戦後の昭和20年から、旧い順に掲載しています。文章として中途の内容が多々ありますが、追加しつつ断片的に書いています。

 年月はその頃の目安です。その時代背景をイメージしておつきあいください。

 

<目次>

●誕生から小学校入学〜小学1年生まで

●小学2年生〜琴似小学校へ転校〜琴似中学校卒業まで

●高校生時代

●東京時代

※左側のページ欄からお入りください


 

         誕 生

1945年(昭和20年12月)

      ていねかなやま

手稲金山は、その昔“金山”だった。

(付録/手稲金山の歴史)

 

  僕は 1945年(昭和20年)の1212日に手稲金山で生まれた。

 千葉のルーツは岩手県水沢市あたりの、どこかの河川敷き沿いで農業をしていた百姓家だった。祖先が江戸後期か明治維新あたりに北海道に移住したのだ。

 父は1898年(明治31年)生まれで、上川方面の層雲峡あたりの貧乏な家に生まれ育った。父の青年期の状況や、町医者での修行時代の情報は一切解らない。

  昭和8年に手稲金山を三菱が買い取り、人口が増えて山中街が急に賑わい出した。生活環境が整い、病院も建設された昭和14年頃に、43歳)は手稲鉱山の三菱鉱山病院の耳鼻科の医師として働いていた。

 戦前・戦中の時代は医科大学を出なくても、国家試験に合格すれば医師になれる制度もあったらしく、父の場合は開業医の書生をしながら修行して、医師になったと姉から聞いている。

 その後父は1950年(昭和30年)に、僕が10歳の時に57歳で脳卒中で急死した。だから父自身の若いころの昔話は残念ながら何ひとつ知らない。父が死んでからしばらく後、年に一度遊びにくる層雲峡に住んでいた父の母(おばあちゃん)と、僕の母と腹違いの姉と3人の、世間話しみたいな会話の断片から、薄っすらとそう記憶していたのである。姉は父と死別した前妻との一人っ子であって、僕とは17歳ほど離れていたし、僕が生まれた頃はすでに同居していなかった。だから姉とは歳の近い姉弟という関係ではなかった。

 母は1916年(大正4年)生まれで、札幌市のど真ん中に生まれた。その実家は明治後期から戦後の昭和28年頃まで、南2条西2丁目で屋号「〆(カネシメ)「軍艦屋」という名の小さな商店をやっていた。この店の商売は夏にはアイスクリームやかき氷、ミツ豆などの甘味類。冬には焼き芋、シバグリを蒸かしたゆで栗、サツマ芋の干し芋、小豆ぜんざいなどを自家製で売っていて、使用人も大勢いてとても繁盛していた。屋号が「軍艦屋」だから、店の間口いっぱいの大看板には、大正から昭和初期の戦前までは日露戦争の日本海海戦で東郷元帥の乗った旗艦「三笠」が描かれ、その後の太平洋戦争時代には絵図らが変わって戦艦(艦種は不明)が描かれていた。

 母は父に嫁ぐ前に「軍艦屋」の父親の一方的な命令で、一度とある男に嫁いだが酒癖の悪い男なのですぐに逃げ帰ったとのこと。母はそのことを詳しく話したがらなかったからそれ以上は聞いていないし、詳しいことは何も知らない。

 とにかく僕は、このようなふたつの家と、18歳離れた再婚同士の二人の間に長男として生まれた。良否は別として、その後の何十年間をそのような見えない過去の運命線上を共に歩き走り、ときには脱せんしながらここまできたというわけだ。

 

 父は僕が10歳で逝ってしまったので、父と僕との間で大人っぽい会話は何もなかったことは前記した。世間ではよく聞く話しで父と息子、男同士というのは本当に口数が少なく、親が死んでしまってから息子たちが「もっと会話しておけばよかった!」と亡くなった後に気づくらしいまぁ男はこんなことなのかも?でも面倒がらずに、我々に残された少ない時間は特にそれを意識して、積極的に会話しときましょうよ、ご同輩!

 幸い僕は、今そのことに気がついた。だから元気なうちに会話はもちろん、僕の独身時代の断片を、息子のためにボソボソと書いておこうと思ったのである。

 ここでの文章は、はそんな動機と目的ではじめたと同時に面白くて愉快だった戦後の昭和時代は、もう二度とこないであろう!と思うから、忘れ頭が進まぬうちに書き留めておく次第である。

 

   おっと、そうだ!

 僕が生まれた194512月12日といえば、敗戦の激動の最中。そんな大変なとこに、なぜ誕生できたのか?を調べたくなってその背景を紐解いてみたら、父が勤務していた病院とは資料に出てくる金鉱山が経営した病院であって、戦前・戦中の社会状況がそこにも大きく関係していたのだ。

 時は戦時中だから、優秀な医師は前線に駆り出されていたであろう。だから当時すでに44歳になっていた父は戦争には行かずに、鉱山と近隣住民ための医師として生かされていたのだ。

 このあたりから僕の話しははじまる。

 

  手稲区の資料館にある手稲金山の地図   上/沢と鉱脈  下/街の略図

 

【関係資料】

手稲鉱山 金山の歴史

札幌市手稲区役所ホームページ「手稲鉱山~鉱山の泣き笑い」

山崎普哉氏の随筆集「ガラスのダイヤ」を参考とさせていただきました。

 

明治の初めに

 星置地区で開墾と農業をしていた人が星置川で砂金を見つけて採ったり、手稲山から米粒ほどの金を発見する人がいた。それで明治15年頃には手稲山から金が採れるらしいという噂が広がっていた。

明治20年頃

 星置で開墾百姓をしていて山歩きが好きな鳥谷部平治という人が、手稲の山中で金鉱を発見。彼は何とかして鉱山を開けないかと全財産を賭けいろいろと手をつくして、元道庁の技師石川貞治と資金を出しあって採掘することになる。明治40年頃まで現在の手稲ロイヤル病院のあたりを中心に探したが、成果が得られず断念した。

 後に一緒にはじめた石川は、鳥谷部から鉱山の権利を全て買い取る。(鳥谷部は本業の農業に戻った)石川は滝の沢上流の黄金沢のあたりに鉱脈を見つけ、一時期成功したかに見えたが、しかし手稲山は原始林そのもので奥まで開発できなかったり、その後の鉱脈探しに失敗し資金難で閉山に追い込まれた。鉱山は、以後、明治後期と大正時代は誰も手を出さずに放置された。

大正2年に手稲山で山火事が発生、そのために山が丸裸となる。

昭和初期のころ

 それなら!と前に鉱脈を発見していて、やはり開墾百姓をしていた広瀬庄三郎という人が、昭和3年(1928)に権利を得て50人ほどの人を使って金の採掘を試みる。

 金だけではなく銀・銅など様々な鉱石を産出した。当初は、金鉱石はミカン箱に入れて背負い、銀や銅の鉱石は56人の人力とカマスで軽川駅まで運んだ。それは大変な重労働であった。

 その後、掘り出された鉱石は荷馬車で運ぶようになっていたが、昭和9年(1934)に鉄索とよばれる空中ケーブルが施設され、黄金沢から手稲町見晴し台(軽川駅近く)まで、ガラガラと音をたてながら自動的に運ばれるようになった。鉱石のまま販売する方法は順調に推移し、金の価格高騰や国の産金奨励策などが重なり軌道に乗りはじめる。

 この頃には鉱山地域に人も住むようになり、万の沢に10軒、黄金沢に4軒、三ッ山に6軒というように、次第に生活区域が広がって街として大きくなっていく。

その頃

 万能沢から、冬に水が氷らない程度のぬるい温泉が発見された。この水を(現在の手稲ロイヤル病院あたりに)引き込み、湯を湧かして「滝の沢温泉場」とする。お客は札幌方面からがほとんどで(一部は小樽からも)軽川駅からタクシーで利用された。 この温泉施設は昭和13年になって三菱に買い取られ、三菱鉱山病院(昭和38年にルカ病院)となった。

昭和7年頃

 広瀬庄三郎が手稲山へ深鉱に入って約10年が経過していた。 この間に札幌の自分の土地・建物にはガンジガラメに抵当が入り、資産の殆どの10万円をすっかり使い果たしてしまっていた。しかし皮肉にも、この頃にやっと質の良い鉱脈を掘り当てたのである。広瀬は掘り出した鉱石を見本持参して旧知の同業者、秋田の小阪鉱山へ助けを求めた。小阪社長は手稲鉱山を調べた上で有望と判断し、広瀬から100万円で採掘権を買い取る。(当時の100万円は現在の50億円ほどらしい)

 新しく発見された鉱脈には、1トンの鉱石から実に1020キログラムの金が採れたという。この位の鉱石になると金が岩石に付着しているのが肉眼で見えるという。しかしあまりにも大きな投資がかさみ小阪鉱山も採掘を続けるにはいかず、三菱鉱業(株)への売却を計画することになる。

昭和8年に

 三菱鉱業(株)は小阪鉱山に1000万円を払ったとある。三菱は金・銀・銅の埋蔵量調査を2年間ほど行い、約50年間の採掘ができると結論し、昭和89年にかけてさらに10002000万円の大投資し、昭和12年にはすべてを買い取ることになる。

 鉱夫1000人、管理職から周辺施設の家族を合わせると4000人の町が、手稲山中に一夜にして出現した。世界の貿易も国内の貨幣制度も、金量が国家の実力という「金本位制」の時代。手稲山の山裾には、またたく間に旅館、料理屋、飲み屋まさしく「ゴールド・ラッシュ」の情景がここに出現したのである。

昭和13年頃には

 昭和13年(1938)から国策に従って「緊急産金操業」に入り、翌1411月には月間50,000tを処理できる東洋一といわれた選鉱場が完成。鉱石を山奥の鉱脈から選鉱場まで運ぶための4キロメートルに渡る地下トンネル(星置通洞)も掘られ大増産態勢の準備が整った。昭和14年から16年にかけては月に6トンもの鉱石を採掘した。

 その頃には鉱山地域に社宅が続々と造くられ、学校(現:手稲西小学校)、病院、郵便局、巡査派出所、神社、劇場などが建てられた。鉱山労働者は多いときで700人ほどいた。最盛期の鉱山従業員は約2,000人、社宅が1,200戸あまり。手稲町の人口は、昭和10年に6,699人であったが、昭和20年には12,540人となっている。

昭和16年(1941)に大平洋戦争が勃発

 昭和17年には、地名が星置から分離されて金山となる。大東亜戦争が始まると同時に各種の鉱物資源が大量に必要となり、戦争期間中は、特に昼夜3交替で増産に拍車がかかる。

 今までのように鉱石の塊のまま送りだすのではなく、選鉱場で金・銀・銅の入った石とそうでない石に分別し、さらに砕いて粉状にして瀬戸内海の直島の製錬所に送り出した。また黄金沢と三ッ山間に800メートルのトンネルを掘り、鉄索で鉱石を送り出すのではなく直に選鉱場に運搬することにした。鉱石の掘り出し量を比較してみると、昭和910年には一年間に1,0001,500tだったものが、昭和16年にはなんと60,000t4060倍)にもなっている。昭和16年には10日間で、金と銀を合わせて94キログラム採れた記録がある。

 しかし他の面では、選鉱場で使われた汚水は鉱毒に汚染されていて一般河川に流すことはできないので、手稲山口に貯水ダムを造ったが、次々に一杯になったという負の遺産も残した。

昭和18年(1943)に

 戦時下で国の政策が急転換し、全国の金山が整理されることになる。手稲鉱山も金山としての操業は休止したが、銅も豊富に採れたため銅鉱山として再出発することになる。操業規模は月間30,000tに縮小、人員も削減され約300人が他の鉱山や炭鉱に移された。しかし粗鉱はもともと金銀銅を含むので、金の生産も引き続き行われていた。

昭和20年(1945)終戦を迎える

 戦争中に採り過ぎたり乱掘したのが大きな理由で、鉱山は急激に縮小された。

 従業員の生活も困窮を極め、道内各地で起きていたストライキに触発され、昭和21年(1946)に賃上げを要求して約500人の従業員がストライキをした。しかしすでに操業を諦めていた会社には相手にされずに、成果は何も得られなかった。

 昭和22年(1947)に三菱鉱業(株)は規模をさらに縮小し、従業員を3分の1に減らすことになる。それ以来出鉱量が激減し、昭和24年(1949)には20,000t台まで落ち込み、あわせて国によるあ銅の価格差補金撤廃の大打撃を受ける。

 選鉱場やその他の生産設備を撤収する傍ら、従業員20名ほどで高品位残鉱の手掘り採掘を行う。それも枯渇し経営が生き詰まり、昭和25年(1950)秋に休山する。

 手稲町の人口は、昭和25年に3,000人減って9,748人になっている。

昭和29年(1954)には

 三菱鉱業(株)は撤収作業を終了し荒川鉱業へと経営を譲る。荒川鉱業は一時期、これまでにない高品位の鉱脈で産金を一気に引き上げ経営も好転しかけるが、すぐに高品位鉱が底をつき生き詰まる。

 その後鉱山は昭和32年(1957)に千歳鉱業に引き継がれ、昭和39年(1964)には7.2キログラムの金産出に成功したが、その後が続かず昭和46年(1971)に完全閉山し、約80年間の歴史に幕が降りた。(手稲金山の資料編終了)

 

 

 

姉から聞いた、親父のエピソード

自転車で一山超えて、往診へ

 

 17歳年の離れた姉

ちなみに

 


 


 70年以上も住宅として使われているレンガ造りの社宅。戦後直後に樺太からの引揚者のための社宅として造られたらしい。

 現在も「ひぐらし住宅地」内に10軒ほど現存している。いまは個人所有となっていて人が住んでいる。この住宅はまさしく産業遺産である。(2009年撮影)


 

 1948年(昭和23年) 

上芦別での生活

「帰りに“笹の葉”採ってきてね」 

 

 手稲(金鉱山)の三菱鉱業は、戦後1947年(昭22)に規模をグンと縮小し、従業員を3分の1に減らすことになる。そして僕の父も、金から石炭への経営転換を受けて、手稲金山から石炭採掘の町、上芦別町の三菱鉱業所病院へ転勤となる。

 三菱の管理職社員が生活していた住宅地はひぐらし住宅地という名称で、石炭を掘り出す作業員の宿舎(炭住)とは別な場所にあった。ひぐらし住宅地では、冬は全戸に集中暖房(スチーム)は敷かれていて、屋外のパイプの繋目のあちらこちらから漏れた蒸気がシューシュー吹き出ていた。その情景はいまもしっかり目に焼き付いている。戦後の1947年頃からの石炭増産国策による景気のよい時代であったから、ここでは随分と上等な生活ができていたのだ。 

 近くの 国鉄線路(踏切)の向こう側に上芦別小学校・三菱鉱業所病院・幼稚園などが集まった地区があって、昭和22年~25年(25歳)当時私はこの幼稚園に通い、帰りには隣の病院の耳鼻科医師になっていた父に鼻茸(はなたけ)の治療を受けて帰宅していた。帰りの踏切のそばには笹薮があって、母がつくるべっ甲餅を包む笹の葉をちぎって持ち帰って喜ばれたりした。

 ず~と後の1976年頃に聞いた話しだが、「1955年頃(昭和30)までの産炭地の小学校では、炭坑の坑内作業員と管理職の子供たちはクラスが別れていた。」とのことであった。勿論、当の子供たちはそんなことには全く気づかなかったので、そのような差別があったことにビックリだ。


▲現在の上芦別の風景 左上/線路上から見た“ひぐらし住宅地” 上中/線路脇の笹薮があったところ 左下/上芦別駅 下中/昔の映画館跡 右下/ひぐらし住宅地(2009年撮影)

 

上芦別の石炭採掘の歴史

 

   大正2年5月、この地を開拓していた京都植民協会上芦別農場を三菱鉱業の前身である三菱合資会社が買収し、多くの炭鉱施設を建設して「三菱村」が形成され、芦別地域で最初の大規模炭鉱開発が始まった。

 本線に接続する専用線が敷かれて運炭が開始されるに伴い、上芦別駅が開設された。昭和8年の三菱鉱業一時撤退後、西芦別の東頼城町と緑泉町近くの六線沢(加藤ノ沢)に開坑した第二坑、第三坑まで敷かれていた専用線は、帝室林野局に売却され、奥芦別から駅土場へ木材を運ぶ芦別森林鉄道に利用された。 

 昭和恐慌に端を発する不況による三菱の撤退はこの地を震撼させたが、空知川対岸の金剛地区に東芦別炭鉱が開かれ、駅まで索道を設けて運炭を開始。

 戦中の労働力不足とインフレの混乱で中小鉱山が相次いで閉山する中、東芦別炭鉱の一切を明治鉱業が買収して、対岸に「明治村」を形成した。

 戦後になると石炭増産政策により、三菱鉱業が再開して専用鉄道を敷設し、明治鉱業も索道をやめて坑外電車軌道を敷設するなど増産体制を整えた。その後昭和30年代後半のエネルギー転換政策により各炭鉱の閉山を迎え、この駅を利用する貨物は殆ど無くなった。

 

●2012年12月に刊行された

「週刊文春/新・家の履歴書に掲載された、

上芦別町についての記事を引用掲載します。

 

<日本総合研究所 理事長/寺島実郎さん(1947年生)>

 

 寺島さんのお父さんが石炭の大手“明治鉱業”に勤めていた関係で、戦後に九州から北海道は留萌の近くの沼田町(昭和炭鉱)に転勤になる。

 「炭鉱は完全な二層構造で、会社の職員と鉱員では住む世界がまったく違う。親父は炭鉱全体のナンバー・ツーだから、当時は僕も“お坊ちゃま君”だったわけだ。」その後、白糠町の庶路炭鉱へ。さらに1955年には、再び九州福岡の築豊の明治炭鉱へ。時代はまさしく戦後復興の要、石炭エネルギー優先時代であったのだ。

   翌56年、彼は小学3年生の終わり頃、再び北海道へ。

ここで上芦別町が登場する。

 「小さな平屋の一戸建てに住む。周囲には同じような社宅が何軒も並び、家の前には石炭を運び出すトロッコの路線が通っていた。」

 

※さて、氏の自宅があった場所は?明治鉱業の住宅であったろうから、上芦別の◯◯◯◯◯(調べ中)だろう。

 彼の北海道生活は、その後58年に札幌に転勤となり、幌西小学校から啓明中学、旭丘高校へと紹介されている。

      ※上部の家屋のイラストは、週刊文春の記事に同時に掲載された、当時の寺島さん家の図です。

 

 

配給所のアンパン

 

 僕はアンパンが大好きです。

 そしてアンパンの中の餡の好みは断然こし餡派です。当然、大福餅もこし餡。一方のつぶ餡にはちょっと可哀そうな言い方ですが、口の中にガサガサと小豆の皮が残るので、その食感がどうもスッキリしない後味になっちゃうんですね、僕の場合。それに比べてこし餡は、ゆったりべったりと抵抗なく優しく口全体に広がり、餡を食したという満足度が高いのですが皆さんはどうですか?

 そう書いていて大きな矛盾に気がつきました。たいやきの場合はつぶ餡の方が絶対旨いです!。たぶんガサカサ度のバランスなんでしょうかねと思いつつ、誰かに「アンパンだってパンの部分はかなりガサガサしてるでしょう。」と云われると、最初に断言した「餡の口中感触理論」がすでに理路崩壊しちゃってます。

 ついでに、たいやきにこし餡が入った場合を想像してみましょうどうですか?できたての熱々のパリッとした皮と、少し時間が経ってシナッとしたものとはこれまた感触がまったく違いますが、ボテッとした厚みのあるたいやきには、どちらにしても断然つぶ餡です!(この話し長くなりそうだなたいやきについては、別項にありますので開いてみてください。)

 この稿は本当はアンコ(北海道弁?)のお話でなくて、母に連れられて配給所にアンパンを受取りに行った、というお話だったのです。

 戦後の数年間は食料(米など)の配給が続いていたようで、上芦別町のはずれに三菱鉱業所(たぶん社の専用)の配給所兼売店がありました。月に2回程、母に手を引かれてそこに行くのがとても楽しいかったのは、好物のこし餡のアンパンだったのです。

 三つ子の魂というがごとく、上芦別のアンパンの記憶は強烈で、僕の甘党体質はこの体験で刷り込まれたな!と思っています。いまもたまにアンパンを食しますが、どうもピタッとくる昔風アンパンの風味には逢えなくています。多分イースト菌の違いなのだろうなと、想像しているのですが。

 

▼上芦別幼稚園

この写真では見えませんが、赤い屋根の上に風見鶏が載っていて、田舎の幼稚園にしては随分おしゃれでした。(有名なデザインだったらしい)

 

  1952年(昭27)3月撮影/上芦別小学校入学(4人家族で)